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ハミングバード

多様性の中にある自由奔放な秩序

土に生きる微生物を見る

土壌微生物という言葉は、最近はわりと一般的になってきていますが、私たちがメディアなどで目にすることが多いのは実は“もと土壌微生物”なんです。つまり、土から微生物を取り出してきて、ガラスの上に置いて光を当てて光学顕微鏡で600倍以上に拡大したり、電子顕微鏡を使って10,000倍以上に拡大して見るというようなことをしている。私も学生時代から土壌微生物を扱ってきましたが、土壌中の姿を実際に見たことがありませんでした。国の研究所(農業環境技術研究所)で、土壌微生物の生態系についての研究を始めるに当たって、実際の土壌微生物の姿を見る技術がノルウェーにあるというので、ぜひ勉強したいと希望して現地へ行ったんです。
ノルウェー国立ベルゲン大学で学んだのは、遺伝子だけを光らせるDAPIという染料を土の中に入れて、真っ暗な土の中で土壌微生物を見るという技術です。紫外線を当てることで遺伝子をもつ微生物が蛍光を放つので、顕微鏡の視野をビッシリと覆い尽くすほど多数の連鎖状菌、桿菌(かんきん)などが、それまで見慣れた姿そのまま、土の中でも実際に繋がっているのが見えるんです。すごくきれいで、まるで夜空の天の川のよう。土壌微生物の生態系の研究を始めて間もない頃だったので本当に感激しました。



一方で、こんなにどっさりあるものを一個一個調べていられないなと茫然自失(ぼうぜんじしつ)。真面目な人は、よし頑張るぞ!となるんですけど、私は「やーめた」って(笑)。 微生物なんて、あまりにも数が多過ぎて名前さえ付いて無いものばかりだし、種類も分類も決められないわけですよ。つまりものすごく多様なんです。それで、もともと好きだった確率論や統計物理学に活路を見出して、多様性の研究に入っていった。例えば、「温度」って何かって言うと、空気中に無数に存在する気体粒子の運動速度や乱雑さ、それぞれのエネルギーを一括して表す指標なわけです。宇宙のような土壌中の微生物の写真を見た瞬間に、膨大な土壌微生物の世界も、「温度」と同じような発想で表せる筈だと直感しました。
つまり、確率論や統計物理学の視点から、いままでにない全く新しい多様性の概念をつくったんです。私が定義した多様性というのは、簡単に言えば、いろんなものがいろんな形をしていて、はっきりしない、「一様でない=わからない」っていうこと。だから、“わからなさの物差し(指数)”をつくって「温度」のように“数量によって多様性を測る”ことを考えたんです。

「種類(しゅるい)」って何だろう?

例えば人間が複数いて、10人、100人、1000人の集団が多様であるというのはどういうことなのか。まるで神様のように、人間一人一人の属性の全て、例えば、男女、人種、好みの服の色などを完全に把握して、その属性のバリエーションの幅によって多様性を測るという考え方がありますが、そういうことが仮に(神様じゃないので)出来ないとしたらどういう方法があるか。ある種の物差しを通して人間をグループ「種類」に当てはめ、その種類の数の多さ、つまり「種数」で測るというのが一番簡単な多様性の測り方です。ただ、そのためには、「種類(しゅるい)」とは何かということを最初に決める、「分類」基準を決める必要がある。ところが、「分類」過程そのものには、非常に根源的な問題を胎んでいることが分かりました。それは、自然のありのままの姿とは関係なく、そこに人間の判断が関わってくるということ。つまり「操作」です。

なんでそんなことを思ったかっていうと、大学で植物病理学を研究していて、ある日突然、国際的に偉い先生が「この菌とこの菌は異なる菌とされていたが、いまから同じ菌とする」って言い出すわけです。学会で認められたら、昨日は2種類だったのが、今日から1種類になるんですよ。目の前にある世界は何も変わっていないのに、多様性としては半分になってしまう。
そんなことを人間が勝手にやっていいのかなって。

それで、今回の全く新しい多様性概念を作るに当たっては、人間の判断による不連続な仕切りを立てる様な人為操作、つまり「分類をしない」ということ、それから分類という不連続な仕切りではなく、連続的な尺度、つまり生物同志が「相互に性質が異なる」ということを「距離」で表し、その距離の多さに比例した多様性を考えたんです。新概念の構築というと難しいと感じる人が多いと思いますが、本当は図にあるような文章を紙と鉛筆で考えては書く。書いてはそれを、もっと単純な表現に書き直す、みたいな作業をして、最後にはそれを数式にしていくだけなんです。私たちも、お互いの性格に隔たりがあることを「私と貴方は距離が遠い」とかいうじゃないですか。それと同様に、より性質が異なることを「相互の距離が大きい」と言い表し、ある集団がどれだけ大きな距離を持っているのか、によって多様性の高さを表せる様にした。これが、私がつくった分類群に依存しない多様性「分類群非依存型多様性」という概念です。



多様なほど壊れにくい

できるだけいろんな(多様な)菌が棲んでいたほうが病原菌と“守る側の菌”の関係性が一様じゃなくなる。例えば、“エサを獲る”という性質に着目したとして、“食う者”“食われるもの(これは生き物だけに限らず、エサになる有機物も含めて)”という関係性が一様になってしまうと、どんなに強い者でも完全に全てを網羅することが出来ず、どこかに抜け道ができるだろうと。ある特定の狭い場所(下の図左側の矢印:これは、空間的な場所という意味ではなく、“エサを獲る”という現象の多様さを空間的な広がりとして表現している)では熾烈(しれつ)なエサの取り合いをしている(つまり、ある特定のエサについて、同じ関係性空間の一点にひしめいているため、多くの菌がバッティングしていると言う意味)けど、他の場所は“がら空き”になっている(他の餌は全く手つかずで、結果として過剰に蓄積していくイメージ)というようなことが起きる。だから、外部から侵入を試みる新しい病原菌がやすやすとその場所(食う食われると言った関係性の狭間)に住みつくことができる。一方、右側の図の構造を見てください。菌の餌の食い方のパターン(図の中の線の分布)の多様性が高ければ高いほど、空間をめいっぱい使う(食う食われるの関係性に隙間がない)ことができるので、こうした病原菌を見逃すことなく排除することができるみたいな・・・(笑)。
1グラムの土の中で起きるエサの競合、食う食われるのなどの関係性が多様な菌で「隙間なく」埋め尽くされている状態では、いかに“新参者”を入りにくくしているかっていうことがわかりました。



これは、菌の世界だけでなく、例えば街の社会構造などにも同じことが言えます。多様性が高くて活発な街っていうのはなかなか壊れないんですよ。そこに大きな商業施設が建つと、小さい商店は成り立たなくなってぽつぽつと抜けていく。この「抜け」が一定以上を超すと、一気に加速し、町中がシャッター街になってしまい、もはや歯止めが利かなくなる。結局、街が崩壊するんです。また、一見逆の現象が産業社会では見ることが出来ます。例えば、ある業界で、会社間の情報、資金、仕事の繋がりが強固で、しかも複合的な内は、なかなか大規模なメンバー交代は起こり難い、しかし、一旦、大型の海外移転などが 起き、資金と仕事の流れが一様化すると、経済状況の変化をもろに受ける形で、一気にその業界自体が姿を消してしまうこともあります。これが、昨今、私たちがニュースでよく目にする現象です。社会も生態系もシステムという意味では非常によく似た性質を持っている。

こういう見方というのは、私がたまたま物理をやっていたから、生物を見た時にそういう感覚で見ることができたんですね。

雑然とした中にある秩序

もうひとつとても面白い話があって、渋谷のハチ公前のスクランブル交差点ってあるでしょ。私は多様性と安定性の概念をあそこで考えついたんです。あのスクランブル交差点は、歩行者側の信号が変わったときに、ものすごい数の人が一斉に交差点内に押し寄せるじゃないですか。でも誰一人として転ぶ人はいない。

ある日の昼下がり交差点で立ちつくしている田舎者の私の目の前で、5方向から人がドーッと押し寄せて来るのに見事に皆平然と進んでいくんですよ。これは一つの秩序なんだと思ったんです。複雑な入り組んだ道順だったとしても、それぞれが自分の進む道を知っている限りはぶつからない。

だけどもしここに怪獣ガメラが現れたら…。平成版の『ガメラ対ギャオス』という映画があって。ガメラが渋谷駅に着陸するシーンがあるんです。週末でごった返す渋谷駅の屋根を突き破って天からガメラが振ってきます。そして、瞬間もの凄い咆吼を放つ「ぎゃおおおおおお!!」、途端にスクランブル交差点内の人々が凍り付き、そして一方向に一斉に逃げ始めてバタバタ倒れる。つまり、交差点というシステムを構成する人々の動きが一方向に揃った途端に、システムは不安定化する。一見、ごちゃごちゃで雑然としているように見えても、実はそれぞれに秩序が成り立っている。そういうことを渋谷のスクランブル交差点で気付いたわけです。てんでばらばらというのは、実は安定した状態なんだと。病気が発生しない土にも同じようなことが言えるわけです。多様性が非常に高くて、みんなが違う方向性を持っているんだけど、それぞれがぶつからない、言ってみれば「自由奔放な秩序」が成り立って安定を保っているんだなあと。

土壌消毒剤が多様な菌を破壊する

自然栽培で持続的な農業が可能ですか?って質問されることがあるんですが、私は可能だと思います。もちろん、お米を1反当たり10俵以上を収穫し続けるっていうのは(多分?)無理ですけど、“そこで成り立つ限界”を守っていればシステムとしての持続性をもっているわけですよ。それは、農家が自然を相手にしていくなかで構築していくものなんです。

逆に農業資材によって持続可能じゃなくなってしまうケースもあります。全国の野菜産地では、同じ野菜を何十年つくっていても全然病気にならない土(これを専門家は「連作障害抑止型土壌」と呼びます)があったんですよ。ところが、土壌薫蒸(くんじょう)消毒をやってしまった。せっかくあった豊かな土壌の微生物生態系を全て壊してしまったんです。だから、今、畑に出ているあなた、「お願いですから土壌薫蒸消毒なんかしないで」と言いたい。せっかくいい状態だったバランスを壊してしまって、壊れたからまた薬を使わなくてはいけないという悪循環になっていく。これは正に中毒です。酷い話ですよね。

平成24年まで使用が認められていた土壌消毒剤に臭化メチルという超強力な薬があるんですが、オゾンを破壊するのでモントリオール議定書に基づいて使えなくなったんです。臭化メチルはめちゃめちゃ効くので使われてきたわけですが、薬剤を使った農家は目的の作物を穫ってしまえば“あとは私には関係ない”って思っているかも知れない。でも、それが大気中に放出されて長い時間をかけてオゾン層を壊して、結果的に私たち、いやもっと先の子供や孫が強い紫外線を浴びるようになる。紫外線って恐ろしいんですよ。遺伝子をぶった切るんですから。まともな想像力があれば、こんなものを使って農業したら駄目だと思うじゃないですか。このように、農家の方々が知らずに、あるいは、真面目に良かれと思って行ったこと、逆に、行わなかったことが、結果として土の中の生態系を破壊したり、痩せさせてしまったりすることが有ると言うことです。
皆さんに是非、考えていただきたいのは、「土にとって良いか悪いかは、土の微生物に訊いて下さい」ということです。私が開発した「土壌微生物多様性・活性」診断技術がきっとお役に立ちます(笑)。

お金至上主義の技術と科学

農家は良い物をつくりたいわけです。そういう人間としての根源的な望みを持って日々黙々とやっていると私は信じています。 木村秋則さんもいいリンゴをつくりたい、できたら薬をたくさん撒くようなものじゃなくて、環境のことも考えて、みんなが喜んで食べられるような当たり前のことをやろうと思っただけじゃないですか。やめとけとか、無理だとか言われ続けたことをクリアしたから今の木村さんがいるんだと聞いています。

そういう“物づくり”をする人っていうのは、農家に限らずビス一本つくる職人だって同じだと思うんです。100年後、1,000年後に「昔の日本人の作ったビスは凄いね」って言ってくれるような物を残したいと思っているんじゃないでしょうか。

 “良い物をつくりたい”という、とても当たり前の望みのために技術や科学があるはずなのに、何故か今それが一部分違ってしまっているんですよね。お金至上主義で儲けるためだけのものになってしまった技術や科学によって、人間だけが自然を自由にコントロールできると思い込んでいるとしたら、全く大きな誤解です。

多様性を認めていく農業へ

私は昔訪ねた、米国カリフォルニア州のパサデナという小さな町にあるNASAジェット推進研究所(惑星探査機ヴォエジャーの産みの親)で、そのヴォエジャー1号が、太陽系を離脱するとき、振り返って撮った1枚の地球の写真を見たことがあります。太陽圏の外から見たその地球は、強烈な太陽ビームの陰で淡く光るちっちゃなちっちゃな光の点でした。それはまさに私が顕微鏡で土の中を覗いたときに見た1ミクロンの世界と同じでした。私たちは宇宙の片隅にある小さな小さな星の住民で、毎日、喜びや悲しみ、苦労だと叫んでいるけれど、広大無辺の宇宙的スケールから見たら、バクテリアにも等しいような存在なんです。そのことに思い至ったとき、何故か、温かいものを胸一杯に感じたことを覚えています。

私は自然栽培や自然農をやろうとする人達は、もしかしたらそういうことを既にわかっている人達なんじゃないかと思っています。少なくても科学万能だと思っている人に比べれば数段“物事を知っている”はずです。そのほうが調和のとれた世界で、持続的だと思っているから、決して楽な方法ではないのにやるわけでしょ。だから、「自信をもってやってください!」と言いたい。そして、私にも、お手伝いをさせて下さい。どうかよろしくお願いします。

日本の土の多くは、私が知っている限り世界一多様性の高い土です。そういう土を残してくれた先祖のためにも、次の世代のためにも、そして今この瞬間も、世界中で汗を流して土と格闘している多くの仲間達のためにも、土の豊かさの意味を、自然栽培や自然農の価値を明らかにしていきたいですね。道は遙かに遠いけれども・・・(笑)

横山和成 (よこやま かずなり)
1959年、和歌山県生まれ。北海道大学大学院農学研究科修了。
米国コーネル大学農学・生命科学部およびボイストンプソン植物科学
研究所客員研究員を経て、農水省管轄独立行政法人・中央農業総合研究
センター情報利用研究領域上席研究員。農学博士。
システムの多様性と安定性について幅広く研究。
著書に「食は国家なり!」等。