和歌山県みかん農家井邉 博之
石積みの段々畑が連なる斜面。その景観が評価され、世界農業遺産にも認定されたこの地域で、自然栽培のみかんを作り続けているのが井邉さんです。
農家30軒のうち、農薬も肥料も使わないのは井邉さんただ一人。前例のない選択でした。
手の皮が剥ける。原因は、30年後にわかった。
なぜ農薬をやめたのですか?
長い話なんですけどね。サラリーマン時代、神奈川で暮らしていたとき、親からみかんを送ってもらっていたんですよ。
毎年冬になると、手の皮が剥けてくる。医者に行っても原因がわからない。水の使い過ぎだと言われて、でも何をしても治らなかった。
早期定年でこちらに戻ってきて、みかんを山から運ぶ装置に触れたとき、また手が剥けてきた。突き詰めていったら、黒点病を防ぐために農家が必ずまく殺菌剤に触れるたびに、手の皮が剥けていたんです。
いつ気がついたのですか?
思い返すと、中学のころ。親が農薬をまくときに手伝いに行って、何も知らないから、その農薬で手を洗っちゃって。皮膚から少しずつ吸収されて、体がその農薬を受けつけなくなっていたんだと思います。
今でも、その薬が付いた装置に触れるときは手袋をします。触れると、一週間後には手が剥けてくるので。
だから、もう二度とそういう世界に戻りたくないというのが、続けている理由のひとつです。
誰もやらない作業を、炎天下で、一本一本
周りの農家さんと一番違う作業は何ですか?
カミキリムシの退治ですかね。6月から9月の間、木の株元を一本一本見て回って、木くずが出ていたらピアノ線みたいなもので幼虫を引き出していくんですよ。
炎天下で、1.6ヘクタール分、全部?
全部です。朝から晩まで1ヶ月でひとまわりして、それを3ヶ月続ける。3周することになります。真夏の暑い時期ですが、昔はみんなこうやってたらしいんですよ。懐かしいって思ってんじゃないですかね、周りの人は(笑)。
なぜそこまでするのか。放置すれば、木が枯れるからです。
カミキリムシが根に入ると樹勢が弱まる。弱まった木の樹皮が割れると、今度はミカンナガタマムシが卵を産む。その幼虫が形成層をぐるっと一周食べてしまうと、水と栄養の通り道が断たれて、木は一発で枯れます。
「おいしい」と言われたら、それだけでいい
一番の喜びは何ですか?
最近、加工工場から出たみかんパウダーを、滋賀のナッツ屋さんに食べてもらったんですよ。
そうしたら「ほかのみかんパウダーより美味しい」と。そういうのを言われると嬉しい。
肥料を入れないから、ファイトケミカルが豊富になって、特別に甘いわけじゃないけど、美味しさが出てくるんだと思っています。
自然栽培のみかん、こんなにおいしいと言ってもらえたら、嬉しいですね。
編集後記
農薬に触れるたびに手の皮が剥けるという、その事実から始まった。「農薬を使いたくない」だけでなく、「使えない体になっていた」。気が遠くなるような炎天下の作業も、誰にも相談できない孤独も、「おいしい」という一言があれば帳消しになる。そんなピュアな想いでミカンを育てくれている農家さんがいるのです。
